知られざるエマヌエル・バッハ (C. P. E. バッハ) を紹介するこのサイトに関するブログです.
note 記事として投稿した内容をここにも書いておきます.エマヌエル・バッハの「主題の途中で新しいフレーズが次々に現れ,感情の表情が揺れ動き続ける」 音楽を J. S. バッハや古典派と比較している記事です.
クラシック音楽のなかでも、バロック音楽はしばしば「神への音楽」として語られます。とりわけ J. S. バッハの音楽には秩序や必然性の強い世界が感じられます。一方で、私がその息子エマヌエル・バッハの音楽を聴いていると、そこにはもっと直接的に「人間」があらわれているように思えます。
では、ハイドンやモーツァルトに代表される古典派はどうでしょうか。一般には古典派こそ人間的な音楽だと考えられていますが、私にはむしろ、合理的で予定調和的な世界が前提となっており、どこか「完全な人間像」を仮定した音楽のようにも聞こえます。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach)は、しばしば C. P. E. バッハと略され、J. S. バッハの息子として知られる 18 世紀の作曲家です。音楽史ではバロックと古典派のあいだ、前古典派 (前記古典派) として位置づけられます。
ハイドンやベートーヴェンに影響を与えた存在として紹介されることが多いのですが、実際に聴いてみると、単なる過渡期の作曲家とは思えません。主題の途中で新しいフレーズが次々に現れ、感情の表情が揺れ動き続けるその音楽は、父 J. S. バッハの秩序だった世界とも、ハイドンやモーツァルトの安定した旋律線とも異なる印象を与えます。
本記事では専門的な分析ではなく、私自身の聴取体験を出発点にして、この作曲家の音楽がどのように聴こえるのかを書いてみたいと思います。
こうした印象は、具体的に音を聴いていくとさらに強く感じられます。エマヌエル・バッハの音楽を聴いていてまず感じるのは、旋律のあり方の違いです。
ハイドンやモーツァルトの作品では、主題は比較的はっきりした輪郭をもち、何度か聴けば自然に覚えられることが多いように思います。もちろん聴くときに覚えようとしているわけではありませんが、結果として旋律が記憶に残ります。それに対してエマヌエル・バッハの作品では、主題の途中で新しいフレーズが現れたり、感情の表情が思いがけない方向へ揺れたりすることが多く、ひとつの旋律線として固定されにくい印象があります。
たとえば次のビデオで最初の 30 秒から 1 分くらいを聞いてみてください.
和声が変化しているというだけではありません。むしろ、旋律そのものが落ち着く前に別の表情へ移っていくように感じられます。提示されているはずの主題が、安定したかたちとして耳に残る前に動き続けてしまう。そのため、私は曲を聴けば以前に聴いた作品だと分かるのに、どんな主題だったかと問われると、うまく思い出せないことがあります。
これは聴き方ではなく音楽そのものの性質の違いではないかと思います。私は古典派とエマヌエル・バッハとで特別に聴く態度を変えているわけではありません。同じように旋律を聴いているつもりでも、古典派では旋律の形が残り、エマヌエル・バッハでは旋律の変化の印象が残ります。
このような音楽は、最初は少しとらえどころがないように感じられるかもしれません。しかし同時に、覚えにくいということが、むしろ新鮮さにつながっているのではないかとも思います。古典派の音楽では、主題を思い出すことで聴取体験が積み重なっていく感覚がありますが、エマヌエル・バッハの場合、聴くたびに細部が違って聞こえ、音楽の動きそのものが新しく立ち上がるように感じられることがあります。
こうした違いは、音楽の終わり方にも現れているように感じます。ハイドンやモーツァルトに代表される古典派の音楽ではソナタ形式がよく用いられます。ソナタ形式では、主題が提示されたあとにさまざまな調やかたちへ展開され、最後にふたたび安定した形で戻ってきます。その過程で生まれた緊張がほどけて、「問題が解決された」と感じられる終わり方をすることが多いと思います。
それに対して、エマヌエル・バッハの作品には、同じ主題が途中で何度か戻ってくるリトルネロ形式に近い構造が見られます。リトルネロはもともとバロックで広く用いられた形式ですが、エマヌエル・バッハの音楽では、単に古い様式が残っているというより、揺れ動く流れのなかで主題が戻ってくるように感じられます。主題が戻ってくると聴き手には安心する感覚がありますが、それは問題が解決されたという印象とは少し違います。何かが完全に完結したというより、ひとまず元の場所に戻ってきた、という感覚に近いのです。
ここまで、私が古典派とエマヌエル・バッハのあいだに感じている違いを書いてきました。しかし、古典派の音楽を聴くときとエマヌエル・バッハの音楽を聴くときとでとくに聴き方を変えているわけではありません。同じように旋律や主題を聴いているつもりでも、古典派では形が残り、エマヌエル・バッハでは変化の印象が残ります。旋律を追っているあいだに、思いがけない変化が現れ、それが次の瞬間の音楽の表情を変えてしまう。その連続が、聴いていてどこか刺激的に感じられる理由なのかもしれません。
こうした体験は、必ずしもエマヌエル・バッハだけに限ったものではありません。大作曲家の作品は、聴くたびに違って聞こえるものです。しかし彼の場合、主題そのものが固定されにくいぶん、聴くたびに音楽の流れが新しく立ち上がるように感じられることがあります。何度聴いても完全に覚えきったという感覚にならず、そのことがむしろ新鮮さにつながっているように思えるのです。
おぼえられないということは、理解できないということではありません。むしろ、ひとつの決まったかたちに閉じないまま音楽が動き続けているという感覚に近いのかもしれません。主題を覚えて再認識する楽しさとは少し違い、聴くたびに小さな変化を発見するような体験が続いていきます。だからこそ、また聴いてみたくなるのではないでしょうか。
こうした感覚は現代という時代ともどこか重なっているのかもしれません。かつては、音楽史も芸術観も、より安定した方向へ進んでいくという見方が自然に受け入れられていました。より広く、歴史についてもそうです。しかし現在では、進歩が一直線に続くという考え方そのものが揺らいでいます。必ずしもすべてが解決へ向かうわけではなく、むしろ変化し続けること自体が自然だと感じられる場面も増えているように思います。
エマヌエル・バッハの音楽を聴いていると、こうした感覚とどこか通じるものがあります。音楽が安定した形へ収束するというより、揺れや変化を保ったまま進んでいくように聞こえることがあるからです。ただし、これは哲学的な意味で共鳴しているというより、聴取体験のレベルで感じられる近さです。彼の音楽が現代的であるというよりも、現代の耳がその動きに自然に反応している、と言ったほうがよいのかもしれません。
もちろん、こうした印象は聴き手によって違うはずです。古典派の音楽のなかにも揺れや不安定さを感じることはありますし、エマヌエル・バッハの作品にも安定した部分はあります。それでも、主題が固定された形に落ち着く前に別の表情へ移っていく感覚や、終わりが完全な解決として響かない感覚は、私にとってはどこか現在の時間の流れに近いものとして聞こえてきます。
だからといって、彼の音楽を現代の思想に結びつけて説明するのは適当でないように思います。ただ、聴いているあいだに感じる刺激や新鮮さが、いまこの時代にあらためてこの作曲家の音楽を聴き直す理由のひとつになっているのかもしれません。
エマヌエル・バッハの音楽を聴いていて強く感じるのは、安定した結論に向かって進んでいくというより、変化そのものが音楽の中心になっているような感覚です。主題が提示されているあいだにも新しいフレーズが現れ、終わりに近づいても完全な解決という印象にはならない。そのため、ひとつの形として記憶に固定されるというより、聴いている瞬間の動きや表情が印象に残ります。
古典派の音楽を聴くときと、エマヌエル・バッハの音楽を聴くときとで、特別に態度を変えているわけではありません。同じように旋律を追い、同じように音楽の流れを感じているつもりでも、残る印象は少し異なります。ハイドンやモーツァルトでは主題の輪郭がはっきりと思い出されるのに対して、エマヌエル・バッハでは、どこが変わったのか、どこで揺れたのかといった細かな瞬間が記憶に残ることが多いように感じられます。
おぼえられないということは、難しいということではないと思います。むしろ、ひとつの決まったかたちに閉じないまま音楽が動き続けているという感覚に近いのではないでしょうか。何度聴いても完全に覚えきったという感じにならず、そのたびに少し違った表情が見えてくる。だからこそ、また聴いてみたくなるし、常に新鮮なのだと思います。
なお、本記事は ChatGPT 5.2 と対話しながら組み立てていったものです。